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北海道からのお客様 2015-09-14

奥出雲 『人物』

8月下旬、1通の手紙が届きました。


差出人は、北海道旭川市にある「北海道教育大学」に勤務されている二井様。
さて、北海道の大学から一体私に何の手紙だろうと封を開けてみると、そこには“岡崎喜一郎氏”の事を調べていて、私のブログに行き当たり、岡崎家の方をご紹介いただけないかという内容でした。

ご本人様と電話で話し事情をお聞きし、岡崎の奥様と連絡を取りお繋ぎしたところ、9月11日に旭川からお越しになると連絡をいただきました。


そして、当日。
私も岡崎家へお邪魔しお会いし、1時間ほどご一緒させていただきました。
調べてブログや季刊誌で発表してからずいぶん時間が経っていましたので、だんだん私の記憶も薄れ、しかも喜一郎氏が60代になってから横田の地を離れ、小笠原諸島の姉島へ行かれた辺りについてはまだ殆ど調べていなかったので、また改めてよい勉強の機会となりました。

IMG_3389.jpg

見てください、この資料の山!!!
昭和初期の手紙や、その後、喜一郎氏が亡くなられてから喜一郎氏を研究されている方々と喜一郎氏のお孫さんに当たる洋三氏との手紙のやり取りなど、たくさん残っていました。

この度、旭川から来られた二井氏は、様々な家庭事情を抱えた子ども達を支援する児童福祉施設の歴史を専門に研究されている方で、喜一郎氏が横田を離れ、家庭学校の教師として着任していた当時の事を調べたくて、今回来られたのでした。

たくさんのお手紙や資料を私も少し拝見し、また調べたい衝動に駆られましたが、この後予定があり1時間で退散。
二井様はこの日奥出雲にお泊りという事でしたので、夜宿へお邪魔し近くの飲食店にて遅くまでおしゃべりさせてもらいました!


二井様がずっと研究されている内容のお話を伺い、色々と思うことがありました。
喜一郎氏の事を知り、こんな凄い方が奥出雲におられたという事に衝撃を受け、伝える義務のようなものを感じ調べては発表していましたが、この度、人間の“光と影”に触れる事となりました。
どんなに立派な方にも、“影”があるということ。

それは今私自身がぶち当たっている壁でもあり、自分の中で消化し切れない感情や想い。

そんな時、こんなタイミングで二井様の来訪を受け、全くの初対面の方なのに、“岡崎喜一郎”という人を介し、色々なお話をさせてもらったことで、少し壁を登れたような気がしています。


ブログのご縁。
最近なかなか更新できていませんが、こうやって書く事で繋がるご縁を大切にしていきたいと思っています。


実は、この二井様とお会いした後は「そろばん」に関することで、まち巡りをしてきました。
この日、この町に影響を与えた方々の歴史を辿る日となり、これまたご縁を感じました!!
「そろばん」については、また後日☆



さて、地方創生が叫ばれる今。
少子高齢化が進み、この町の行く末を想う今。
歴史に学ぶ事がたくさんあると実感しています。

ここ数日で起こった出来事は、全て繋がっていて、今の私の思考へとなっています。
また追々、ここに綴っていこうと思います。
そして誰かと、そんな想いを共有できたら嬉しいと思う今日この頃です♪










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安部十二造氏について 2015-02-20

奥出雲 『人物』

今日は少し暖かさを感じる奥出雲で、久しぶりに青空を見たような気がします!
車から降りて事務所に入ろうとした時、お散歩中の男性に声を掛けられました。
しばしポカポカと日差しの当たる外で話をした内容は、「奥出雲の未来が心配」ということでした。
80が近いその男性は、「自分はもうすぐあの世に行くからいいけど、ここに残った者達が自分達が残した負の遺産で苦しまないで欲しい。それがわしの願いです。格差が広がり、特に島根の人間は競争社会では取り残される人のいい人種。競争社会もいいけど、弱者、弱い者達も幸せに暮らせる社会であって欲しい。」と、初めて話をする男性は未来の奥出雲を担う人たちへ目を向けられていました。
20分くらいしゃべったでしょうか、心温まるひと時でした!!


さて、ちょっと前置きが長くなりましたが、先日ブログで情報提供をお願いした『安部十二造氏』について、様々な方から情報をお寄せ頂き、どのような方だったのか、少しずつ分かってきました!!!

まずこちらをご覧下さい↓↓
写真 (26)
私のブログを読んで、松葉屋スタッフOさんが持ってきてくれました。
山陰中央新報の「明窓」です。Oさんが新聞の切抜きをとっておられたのでした。
咲楽スタッフのLちゃんとの会話は、実は彼女がこの記事を読んでいて、それで「安部十二造」という名前を覚えていたからでした。

まさか、1年半前のこの記事からこのような事になるとは・・・。



そして次に、岩屋寺の記事をブログに書いたことがきっかけで知り合った奥出雲出身で現在神奈川県在住の廣田さんより、このような情報をお寄せ頂きました。

1.安倍十二造
明治29年~昭和44年 社会福祉施設の創立者
仁多郡阿井村の出身。勉学を志して渡米、ニューヨーク大学に入学し、新聞学・経済学を学ぶ。帰国後、昭和7年、国際電話会社を設立し、顧問に就任。
一方で育英事業のため祈月書院を松江市に創立、戦中から戦後にかけ疎開児童の擁護及び戦災引揚孤児の収容に当った。28年社会福祉法人へ改組し双樹学院とした。
(以下省略  参考文献 仁多町誌) (島根県歴史人物事典より)

2.安倍十二造 遺稿と随想録
目次項目を入手したので、添付ファイル(PDF)で送ります。(自費出版図書館より)
内容は読んでいないので判りません。それにしても、大橋武夫・賀屋興宣・木幡吹月・古井喜実・松前重義・関英男などの著名人が登場しています。

写真 1 (12)

写真 2 (13)

廣田さんが書いておられる有名人であろう人達(すみません、私にとって全く知らない人達なので)を調べてみました。
「   」が名前で、(   )は安部十二造氏を表現した言葉。

「大橋武夫」(島根県の誇るべき人物)・・・明治39年 - 昭和62年 日本の陸軍軍人、実業家、経営評論家。軍人として第53軍参謀・東部軍参謀等を務め、階級は陸軍中佐に至る。戦後東洋精密工業社長、同社相談役や偕行社副会長を歴任する。愛知県蒲郡市出身。
(Wikipediaより)

「賀屋興宣」(国士と言うべき人)・・・明治22年 - 昭和52年 広島県広島市出身の大蔵官僚、政治家。父は国学者の藤井稜意(いつ)、母は愛国婦人会幹事を務めた賀屋鎌子。4歳の時母の伯父の家を継いで賀屋姓を名乗った。東京帝国大学法科大学政治学科卒。大蔵省に入省し、主に主計畑を進んだ。官僚時代には陸海軍予算を担当し、少壮軍人達とも親しかった。(Wikipediaより)

「木幡吹月」(尺八の先生を通じて)・・・明治34年~昭和58年 松江市出身 代々藩主の本陣宿を務め、苗字帯刀を許された木幡家の14代当主。幼名を晋介、後に久右衛門を襲名する。早稲田大学政治経済学部を卒業。宍道町長、県会議員等政界で活躍したが、昭和22年 自宅を開放して旅館「八雲本陣」を開業する。昭和31年島根新聞社社長就任、また県文化財保護審議会会長等の要職にも就任する。生来多趣味の文化人で尺八・俳句・川柳を好み席画もよくした。(アートセンター出雲より)

「古井喜実」(いつまでも心に残る人)・・・明治36年-平成7年 鳥取県八頭町出身 日本の内務官僚、政治家。本名は古井 喜實(読み方は同じ)。日中友好議員連盟会長を務めた。(Wikipediaより)

「松前重義」(安部先生と生を共にして)・・・明治34年 - 平成3年 熊本県出身 日本の官僚・政治家・科学者・教育者・工学博士。東海大学創立者。日本社会党衆議院議員。内村鑑三に師事した。日ソ交流を進めた。世界連邦建設同盟(現、世界連邦運動協会)会長(Wikipediaより)

「関英男」(国際電気通信㈱における先生の御業績)・・・明治38年 - 平成13年 山形県出身 日本の電気工学者。東京工業大学電気工学科卒業。工学博士。東京工業大学・ハワイ大学・電気通信大学・千葉工業大学・東海大学の教授を歴任。加速学園代表、日本サイ科学会会長・名誉会長としてサイ科学・加速教育の研究・発展・啓蒙に努めた。電子通信情報学会名誉会員、IEEEフェロー。紫綬褒章、勲三等瑞宝章受章。(Wikipediaより)

あと、気になった人を調べてみました。
「太田耕造」(国家の大業を成し得た人物)・・・明治22年- 昭和56年 福島県出身 日本の弁護士・政治家・教育者。亜細亜大学の実質的創立者の一人。 日本基督一致教会福島教会(現、日本基督教団福島教会)で洗礼を受け、キリスト教青年運動に従事。牧師を志(Wikipediaより)


こうしてみると様々な分野で活躍なさった方との交友があったことにまず驚き。
そしてその方々が(    )にみる安部十二造氏を表現した言葉を読んだだけでも、安部氏の偉大さが分かります。 


そして、松江出身で現在東京在住の新宮さんより下記のコメントを頂きました。
>国会図書館で「遺稿と追想録」を読みました。追想録の文章から氏の功績と偉大さが読み取れました。
>氏の事をご存じない方も多いと思います。多くの人に知って欲しいと感じました。
>この本は非売品だったようなので、手に入れることは難しそうですね。

内容は聞いていませんが、このコメントを読んだだけでもこの本は読まなければならないと感じています。


どんな功績を残され、偉大な人だったのか、興味はつきません!!
また分かり次第、ブログで紹介させていただきます。


情報をお寄せ頂きました皆様、ありがとうございました。
引き続き何かありましたら、情報お待ちしております!!!

『安部十二造』氏について教えて下さい 2015-02-16

奥出雲 『人物』

すっかりご無沙汰をしております。
旅の話も書かないまま、ここ1ヶ月で色々なことがあり書きたい事は山済みですが・・・。
すみません


さて、今日はブログを読んで下さっている皆様で知っておられる方がいらっしゃるのではないかと思い、今日は教えていただきたくブログを書いています。

私は、奥出雲の事を調べていて稲田神社を建てられた『小林徳一朗氏』、横田相愛教会を建てられた『岡崎喜一郎氏』、奥出雲で初めて海外に行き、上野の精養軒共同オーナーの一人『妹尾勇吉氏』など明治生まれの素晴らしい方々を知り、少しでも多くの方にこんな素晴らしい方がこの奥出雲におられたことを知ってもらいたくブログ等で紹介してきました。

そんな中、今日スタッフと何気ない話から「そういえば、仁多に安部十二造さんって国際電話会社を創立した人がいたみたいですよ!」と。

さっそくネットで調べてみると、下記の情報が分かりました。

【安部十二造(1896 ~ 1969)は島根県仁多町(現在の奥出雲町)に生まれ、社会事業家として青少年の育英に尽力するかたわら、国際電話会社(現在の KDDI)、出雲造船株式会社などを創立した企業家でした。】
 (参照:東海大学学園史ニュースNO.2  2007.10.30発行 ネット上に公開されているPDF資料より)

【安部十二造―遺稿と追想録 (1974年)】そして、こんな本があるようですが、Amazonではもう販売していませんでした。

これ以上の情報が出てこなかったので、どなたか『安部十二造』氏の事知っている方がおられたら、もしくはこの本持っている人がいたら教えて下さい!!


よろしくお願いします☆

早起きは三文の徳 2012-11-01

奥出雲 『人物』

松江在住のフォトグラファー、のぶさん事『伊東昌信』氏が今年の12月中の写真集'root of the island'の発売に向けて島根県内の風景と人を撮影されています。
ご縁を頂き、奥出雲の写真を撮るアテンドをさせてもらいました!!

そして昨日と今朝7時から撮影同行をさせてもらったのですが、とってもHappyな気持ちになりました♪♪ 素敵な景色と素晴らしい人々...。

20121101船通山.jpg早起きして良かったです。綺麗な景色や、

20121101虹.jpgあいにくのお天気の合間に、虹を見ることが!(^^)!

青木先生.jpg横田盆地をバックに、青木先生。

20121101花森さん.jpg藁ぶき屋根の古民家と一緒に、花森さん。

201101木山先生.jpg稲田神社で、木山先生

20121101リリーちゃん.jpgJR出雲横田駅にて、リリーちゃん。

20111101カメラ.jpgのぶさんの、スペシャルカメラ。

昨日今日と私も含め合計8名の撮影が行われました!島根のルーツを巡る写真集'root of the island'全40ページの写真集になるそうですが、奥出雲は8名のうち誰が載るのか、楽しみです!!


伊東写真事務所 http://www.nob-ito.com/

"岡崎喜一郎氏″について 2010-09-01

奥出雲 『人物』

皆さんこんにちは! 9月に入りましたね。田んぼの稲も随分黄色くなり、また赤とんぼがたくさん飛んでいる姿を見かけます。まだまだ暑いですが、秋が近付いているのを感じる今日この頃です。

さて、今日のお題は"岡崎喜一郎"氏です。2008年12月25日の私のブログに『横田相愛教会』の事について書きました。今読み返してみても、そんなに大したことは書いていませんが、そこに「岡崎喜一郎」「同志社大学卒業」「県下で2番目の幼稚園創設」「銀行創設」と書いた事で、下記のように3名の方からコメントを頂きました。しかも今年に入ってからばかり...。

■丸山 聖一 様(2010年1月31日) 岡崎喜一郎を研究している公立学校教員です。岡崎は晩年、東京府下小笠原諸島の母島の、さらに奥地の孤島で、児童自立支援施設を経営しました。奥様もご一緒です。当時の何か情報、たとえば手紙、写真、絵はがきなどをお持ちの方がいらしたら、拝見したいのですが。また、昭和14年の横田大火をご記憶の方、何か思い出はございませんか?岡崎が最晩年に勤務した鉄材会社名をご存じありませんか?お伺いします。

■小笠原みどり 様(2010年4月 7日) 岡崎喜一郎は八雲銀行役員でした。八雲銀行は後年山陰合同銀行になります。奏任官待遇で横田郵便局長を退官して、今で言う少年院を設立し、戦後病没しました。この人物に関する情報をお教えください。留岡幸助、山室軍平、本間俊平、金森通倫、小崎弘道らと交遊がありますが、青年時代に太田清三郎という津山中学教員と懇意です。この太田という人物は津山市の市長か町長をやったように思われますが、どなたかご存じですか

■小野一雄 様(2010年8月26日) 
《岡崎喜一郎》早稲田大学 専修英語科 明治30年得業
横田郵便局長・八雲銀行 取締役・松江銀行 横田支店長
【早稲田大学校友会会員名簿】
[第1冊]大正4年11月調 明治三十年得業 専修英語科 岡崎喜一郎(島根) 
[第2冊]大正14年11月調 明治三十年得業 専修英語科 岡崎喜一郎 郵便局長 
【大日本紳士名鑑】大正5年7月15日発行
島根県仁多郡横田村  岡崎喜一郎  横田郵便局長 八雲銀行取締役 p724/1086

と、上記のようなコメントを頂きました。(小野一雄氏のコメントは一部省略しています。)
一番最初、丸山様よりコメントを頂いた時は「調べてみますので、少しお待ち下さい。」と返しました。しかし結局調べず仕舞い。今度小笠原様よりコメント頂いた時には失礼ながらお返事すらしませんでした。何故なら、見ず知らずの方にいくら故人とは言え私が調べてインターネット上に載せて良いものか?本当に調べたい方なら私に直接身分を明かしメールでも下さるか、もしくは、岡崎家がありますのでそちらに聞かれるのが良いのではないか、と思ったのでそのまま放っておきました。すると今度は、つい先日、小野様より岡崎喜一郎氏に関する情報提供のコメントが寄せられました。お名前フルネーム、お住まいの町名、メールアドレスがあったので、何故この様な情報を載せて下さったのか不思議に思ったのと、少し不審に思った事もあり、書いてあるメールアドレスにメールさせて頂きました。
そして、その後5・6通のメールのやり取りをさせてもらい、もちろん身分のきちんとした方で何故情報をお寄せ頂いたか等、ご丁寧に説明いただきました。
小野様とのやり取りの中、改めて自分の書いたブログを読み、頂いたコメントを読み、『こんな大した事しか書いていない私のブログに多分'岡崎喜一郎'という言葉で引っかかり、知らない方から3通のコメントを頂くとは...。また'岡崎喜一郎'氏を調べておられる方がこんなにおられるとは...。岡崎喜一郎さん、凄いじゃん!!』と思ったのです。

小野様からのメールで火が付いた私は、早速両親に頼み岡崎家へ取材(?!)を申し込みました。岡崎家は私の生まれ育った家の目と鼻の先で、もちろん今お住まいの岡崎ご夫妻とも顔見知りではありますが、大きくなってからはあまりお話する機会もなかったので何となく足も遠のいていましたが...、アポも取れ先日、月曜日の朝伺って来ました。
『まぁ、咲ちゃん!初めて上がってもらったわね、うちの家に。ようこそ・ようこそ。私で分かる事なら...。』と岡崎喜一郎氏のお孫さんに当たる方の奥様にこのように言って頂き、お話を伺う事ができました。

アルバム.jpg

本とDVD.jpg

10時から13時半まで、たくさんお話を聞かせて頂き、そして資料をどっさり借りて帰りました。
まず、『奥出雲の地の塩~雲南キリスト教史物語~』加藤歓一郎・藤原道夫共著(初版:昭和48年10月1日)という本を読むことを勧められたので早速読み始めましたが、ここから明らかになってくる"岡崎喜一郎"氏のやって来られた事等、非常に興味深く、感動・感動の嵐です!!こんな凄い方が奥出雲から出ているなんて!!と。
そしてコメントを下さった方の文章に出てくる人物との関わり合い等、どんどん分かってきて、私なりにまとめてみようという気持ちになっています。
「情報仁多」が取材された『奥出雲散策~なっとく!町の文化財~』では"横田相愛教会 前編・後編"として平成19年6・7月に放送されていました。DVDをお借りして見ましたが、とても良くできたDVDでこれも町の宝だなと思っています。

では、岡崎の奥様に許可を頂いたので、少し写真及びプロフィールをご紹介させて頂きます。

岡崎喜一郎.jpg

"岡崎喜一郎" 明治6年(1873年)12月1日生まれ
17歳の時、鳥取県倉吉農学校へ行き、そこで岡山県津山市出身の太田清三郎と出逢う。
太田氏から同志社大学創立者、新島襄の伝記を借りて読み感銘を受け、
明治26年1月に同志社大学に入学。ここで1年先輩の山室軍平と出逢う。病気になり一時帰郷した際、仏教に熱心だった両親がキリスト教に触れた喜一郎を危惧し、復学を認めなかった。しかし、
明治28年11月22日両親に無断で家出、そして同志社大学に復学。
明治29年12月に同大学を卒業し、翌年私立東京専門学校(早稲田大学の前身)の文学部に入学、明治32年に卒業した。

同志社卒業式.jpg

東京専門学校.jpg

その後喜一郎は同志社の先輩金森通倫に従って渡米を志していたが、家庭の都合で帰郷。
明治33年(1900年)3月病気の父親に代わって横田郵便局長に就任し、同年10月には株式会社八雲銀行取締役に選出された。喜一郎27歳。
明治34年に松江でキリスト教の布教をしていた宣教師ナイトが横田を訪れ布教活動、しかし仏教に熱心な両親に遠慮して目立った活動はしていない。
明治41年8月横田町砂子屋で第一回キリスト教夏期修養会が開かれた。これを企画したのが喜一郎と長尾宗次。横田のキリスト教史に大きな足跡を残すことになった。
明治44年(1911年)11月3日、妹クニエと『私立相愛幼稚園』を開園。(昭和14年6月閉園)教育事業に乗り出す。
大正3年(1914年)10月、書記長官山室軍平・金森通倫その他の幕僚に迎えられ'救世軍'に入隊。
大正4年2月、書記長官山室軍平を迎え『救世軍横田屯田小隊』を設立。
大正5年1月18日、藤原璋夫が喜一郎の支援を受け『永生病院』を開設。
大正7年4月5日、『相愛裁縫女学校』設立。(昭和12年廃校)
大正12年(1923年)4月3日、『救世軍横田小隊会館』の盛大な献堂式(現在の名前'横田相愛教会')

教会竣工式.jpg

喜一郎50歳にして横田に理想郷を、『教会・学校・病院』の思いを実現させた。

ちょっとあまりにも長くなるので、とりあえず教会が建ったところまでの簡単な紹介ですが、今から約100余年前にこのように当時理解を得られなかったキリスト教を布教し、宗教活動のみではなく、地域社会へ貢献していたことに、私は強い衝撃を受けました。
もちろん元々資産家の家に生まれたという事もありますが、私財を投げ打って地域の為にと行われた様々な行動は、そう簡単にできることではありません。
岡崎の奥様から聞いたお話、そして本を読み進めて行くうちに、岡崎喜一郎氏の事は横田に住む私達は知っておくべき事だと思うようになりました。
まだまだ、研究途中です。これからも調べ続け、後世へと伝えて行きたいと思います。

まず、調べるきっかけを作って下さった、丸山聖一様・小笠原みどり様・小野一雄様、コメント頂きありがとうございました。
そして、この度喜一郎氏を調べるにあたってご協力頂きました岡崎様、本当にありがとうございました。


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